何もまとまりのない文章だが、思考を整理したい、ご容赦願いたい。
誰しも幸福になりたいと願っている。私も幸福になりたい。
だが幸福とは何だろう。
たくさんのお金を持っていること?
みんなからうらやましがられる地位につくこと?
長生きすること?
人に愛されること?
しかし、私は本当に幸せだと感じられるものがなんなのか?と聞かれて即答ができない。
ほしいものはいくらでもある。なりたい自分もある。
だが、これまでそれを一切達成してこなかったかというとそうでもない。
ほしいものは都度手に入れてきた。新しい服。新しいゲームソフト、新しいスマホ、新しいカメラ。
また、なりたい自分にもなってきた。入りたい高校に入り、入りたい大学に入り、やりたい勉強をし、入りたい会社にも入った。
でも、手に入れたり、苦労してなりたい自分になっても、次はこれが欲しい、こうなりたい、が無限に出てくる。
だからこそ、心から本当に満たされた感覚がない。
Wikipediaには、幸福とは以下であるとされている。
幸福(こうふく、希: εὐδαιμονία、羅: felicitas、英: happiness)とは、心が満ち足りていること[1]。幸せ(しあわせ)ともいう。
うん。わからない。
幸福の形は人それぞれというが、裏を返せば自分が納得しなければそれは幸福ではない。
私にとっての幸福とは何なのか、それを常に考えている。
きっかけはうつ病の発症
私は、会社員として日々の激務の中、うつ病を発症した。
その結果、会社を休職することになった。
休職のはじめは、何もできなかった。
何もしたくない、頭が痛い、これからの不安。
そんな中、なんで私は生きているんだろう、と疑問に思った。
幸い、うつ病を発症した私は、命を絶って何もかも終わりにしたいと、極端な考えに至ることはなかった。
同時に、どうして生きていきたいと思うのだろうかと思った。
生きたい=死にたくない理由
私を含め、多くの人は、少しでも長く生きていきたいと願っている。
世間一般でも、”長寿”という言葉からもわかる通り、長生きすることはめでたいことであるとされている。
これは当たり前のことだ。
長生きしたい=死にたくない理由などいくらでも思い浮かぶだろう。
①死ぬ瞬間は耐えがたい苦痛を味わうことになるから。
②これからの人生で享受できる幸せの機会を失うことになるから。
③残された人々を悲しませてしまうから。
ここでは、思い浮かぶ死にたくない理由を3つほど挙げてみた。
だが、これら理由は、いわゆる死後の世界が「ない」もしくは「現世よりも不幸な世界で、現世の記憶を持ち続けられる世界」ということを前提にしている。
死後の世界が存在し、そこが人間が想像しえない極楽の世界で、そこに住まう人々からしたら、現世に住む我々がとんでもなく不幸な人々だと思っている可能性だってあるわけだ。
もしそうなら、死んだ方が幸せだと思うだろう。だが、死を望む人は基本的にはいない。だから、上述の前提が成り立つと考えている。
これを踏まえ、本当に①②③の理由が死にたくない理由なのか考える。
・死後の世界がない場合
死んだら自分という意識が永久になくなるとしたらどうだろう。
①②③の死を恐れる理由を、感じ取り、不快な気持ちになるのは誰か。
これは自分だ。
だが、自分という意識がない場合、①②③を感じ取ることすらできない。
不快な気持ちになりようがない。
③が悲しむのは他人だと思うかもしれない。だが、他人が悲しんでいると感じ取るのは自分だ。
死んでしまったら自分がいなくなるのだから、不快や悲しみを覚えようがない。
だから、①②③の理由は本質的な死を恐れる理由ではないと思う。
・現世よりも不幸な世界の場合
この場合、確かに①②③は耐えがたい苦しみであると思えるだろう。
だが、これは「死後の世界があって」、「現世の記憶を持ち続けられて」「死後の世界から現世の世界を近くできる」ことが前提だ。
だが、死後の世界を知っている人間は誰一人いない。
だから、①②③は死を恐れる本当の理由ではなく、本当に怖いのは、死んだらどうなるかわからない、という点に尽きると思う。
「生きたい」というのは生物の本能
上ではいろいろ述べたが、ここまで考えられるのは、脳が発達した人間だからに過ぎない。しかし、人間だってほかの生物と同じ命だ。
死んだらどうなるかわからないから死にたくない、という未来予測ができるのは人間だけだと聞いたことがあるが、この未来予測を抜きにしても、生物は生きようとする。
私が調べた限り、人間以外のすべての生物でも、自らの死を目的として死を選ぶことはないとされている。(厳密には、カマキリのように繁殖のために自らを犠牲にする種はいる)
しかし、永遠の命はない。だからこそ、すべての生物は、”繁殖”をして、自らの遺伝子を遺す。
全ての生物は、産まれてから死ぬことが確定している以上、死ぬまでに「生きること」そして「繁殖すること」これこそが目的であり、これが達成されることが全生物の幸福なんじゃないかと思う。
本能としての幸せ
我々人間を含め、生物が「生き続ける」ために、「繁殖」するために、遺伝子に本能としてプログラムされている。
生きるためには死んではならない。だから死に近い刺激は、痛みや苦しみを感じる。
また、繁殖するためには性行為が必要だ。
だから、性行為には快楽を感じ、本能によって生物は繁殖をする。
つまりこれらが満たされている状況が幸せなのだ。
特に日本における現代社会では、生き続けることは容易だ。
社会保障も手厚く、働くことをしないものすら見捨てることはしない。
死にたくないと思ってさえいれば、生き続けることができる。
日本国憲法13条では、幸福追求権が掲げられており、生きるという幸福を国がサポートしてくれているともとらえられる。
快楽を追求すること
では、もう一つの幸福、繁殖はどうだろうか。
繁殖のために必要な性行為は、つつましく、大っぴらにするものではないという風潮がある。
人間は、性行為自体を恥ずかしいもの、表立って触れないもの、ということになっている。
だが、ここに生物としての本質的な”幸せ”があるのだとすれば、性行為そのものを追求するべきではないかと考えた。
性行為には、わかりやすく快楽が伴う。この快楽に酔いしれている間は、悩みや不安はなく、ただ”気持ちいい”という感覚のみである。
この気持ちいいという感覚は、幸せそのものではないか。
この感覚を、より強く、より長く感じたい。そのためにはどうしたらよいのか?
それがこの研究所設立のきっかけとなった考えである。
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